落合マンドリン創業秘話
1963年の創業以来、半世紀以上の歴史を持つ国内有数の工房である落合マンドリン。
その創業者である初代・落合忠男はなぜマンドリン製作の道を歩み始めたのか、イケガク元会長・故 南條猛博の語りでその足跡を辿ります。
※本記事は2013年9月14日「落合マンドリン50周年記念コンサート」パンフレットに掲載された文章をお読みいただきやすく再掲したものになります。
【目次】
語り:株式会社イケガク元会長 故 南條猛博
上京
私が宮崎から上京したのは昭和29年。
今にしてみれば、東京へ出れば何かあるだろう、できるだろう、という恐れを知らない若さゆえの無計画な上京でした。
その時に同じ宮崎で私と非常に深い付き合いをしていたのが落合忠男氏、のちに落合マンドリンを作った男です。
彼は私と同じく東京に夢を求めたのか、もしくは上京する私の世話役を買って出てくれたのか、私と一緒に宮崎を後にしたのです。
二人とも宮崎には戻ってこないつもりで片道切符を買いました。
その頃はまだまだマンドリンとは無関係の人生です。
マンドリンとの出会い
上京してまもなく、本郷にいた後輩の所へ転がり込むようにして新生活の幕が開きました。しばらくは新聞配達で生計を立てていました。
そこで私と落合、そしてマンドリンとの出会いの運命が少しずつ動き始めます。
というのは、その下宿先の親戚筋が渡辺マンドリンの渡辺精次先生でした。
私と落合忠男は二人して渡辺弦楽器へと弟子入りをしました。
渡辺弦楽器で私はコントラバスを、落合はマンドリンを製作していました。
そして2年ほどたった頃でしょうか。私と落合は独立してオリジナルの楽器を作ることを夢に見始めます。
その夢を多くの方が応援して下さいましたが、特に納品先でありました須賀楽器の社長には店舗の中二階を貸して頂きまして、そこで私たちは楽器製作に没頭する日々を過ごしておりました。
工房の創立
落合は機械の扱いを見たいとの動機で名古屋の鈴木バイオリンで働くことにしました。私は東京で一人コントラバスの製作を続けます。
その後、落合はいよいよ自分の手によるマンドリンを製作したいと再上京します。
私としては相棒が戻ってきた嬉しさが何よりもまずこみ上げ、そしてその心強さに「何でもできる!」という想いが心の中で大きくなりました。
当初、工房での暮らしは裕福とは程遠く、食べる物を分かち合う様な日々でした。
銭湯に行くお金もなく真冬に庭先で行水をしたことや、宮崎にいたころは見たこともない雪が積もって、やり方のわからない雪掻きをしたこと、そんな思い出がたくさんあった場所でした。
それでも苦しいとか辛いとか思った事は一度もありません。
常に落合の口から出るのは泣き言ではなく、マンドリンに対する夢と情熱ばかりでした。
巨匠の言葉
そしてある日、落合マンドリンに転機が訪れます。
それは服部正先生に落合マンドリンを見ていただく機会に恵まれたことです。
きっかけは当時の慶應義塾マンドリンクラブのコンサートマスターだった学生が落合マンドリンを使用して下さっていた事から始まりました。
当時慶応義塾マンドリンクラブをご指導されていた服部先生は落合マンドリンを強く推薦して下さったばかりでなく、「この様な素晴らしい楽器ならば、私だけではなく他の先生にも紹介するべきだよ。」と仰って下さいました。
服部先生のお言葉は、落合と私にとって宝物となりました。
そして、当時中央大学音楽研究会マンドリン俱楽部をご指導されていた鈴木静一先生へ落合マンドリンをお見せする事となったのです。
その頃、鈴木先生に対する私共の印象は、音楽にも楽器にもとにかく厳しい方であるという事でした。
どの様な反応をされるのか、不安と緊張に押しつぶされそうにもなりましたが、服部先生からいただいていた「素晴らしい楽器ですよ」とのお言葉が私たちの背中を強く押してくれました。
そんな私と落合の心情を知る由もなく、鈴木先生が最初に示された反応は強いお叱りでした。
それでも、その時のお叱りほど嬉しかったことはございません。
なぜならそのお叱りになられた内容は「こんなに良いマンドリンをなぜもっと早く私に持ってこなかったのだ!」という事だったのです。
そして後に「落合マンドリンを使っていないクラブには私は教えに行かない!」とまで鈴木先生は仰って下さったのです。
私達二人の気持ちは嬉しさから感謝へと変わりました。
それは落合マンドリンを評価していただいた先生方への感謝、応援して下さった多くの方々、そしてマンドリン製作へと導いてくれた全てのご縁に対する感謝でした。
さらなる夢
それからしばらくして、多くの先生方からのご好評を賜ることができ、お陰様で落合マンドリンを愛用して下さる方は増えていきました。
蕨市に工房を構えて2 年程経った頃の事でした。
本当にありがたい事にご注文の台数も増え、落合は製作に明け暮れる日々となりました。
私はその時に「自分の楽器を多くの人に使ってもらう」という私と落合の抱いていた「夢」が実現したのだと感じました。
しかし落合がその頃に抱いていた「夢」は「もっともっと、更に楽器を向上させる!」というものでした。
落合の「夢」は終わっていなかったのです。
そんな夢を実現させる為には、その頃の工房では条件的に難しく、落合は宮崎に戻り、そこで工房を構え製作活動に専念することとなりました。
一方私は東京に残り、落合マンドリンを販売していく事を使命とする決意を固めました。
そして何年かして「いけぶくろ楽器㈱」を3 人の共同経営者と共に池袋に設立しました。
以来、落合は宮崎で製作を、私は東京で販売をすることとなったのです。
宮崎に戻ってから落合の楽器製作に対する情熱は一段と強くなりました。色々な先生方のご意見を貪欲に求める様にもなりました。
とりわけ服部正先生、鈴木静一先生、中野二郎先生はとても積極的にアドバイスをして下さりました。先生方のご意見に対して、落合はいつも謙虚に、そして素直に従いました。
そこには多くの職人に見受けられる自分の技術に対する過信や慢心は一切ありませんでした。ただひたすらに「より優れた楽器」を求めていました。
そのような強い探求心は現在の落合マンドリン当代・落合大悟郎氏へと引き継がれます。
二代目 大悟郎
落合は長男である大悟郎に、「楽器を製作するために販売の現場を知れ!楽器を弾く人たちの顔を見ろ!」と東京にいる私のもとへと送り出します。
今から30 年ほど前の事です。
その時に宮崎から堀ノ江太という落合大悟郎の幼馴染みが一緒に上京してきました。かつて落合と私がそうしたように片道切符で…。
現在は㈱イケガクの社長として堀ノ江は楽器を販売し、そして落合絃楽器では落合大悟郎が数名の職人たちと、そして大悟郎の弟である三四郎氏と共に楽器製作の道を歩み続けています。
今もなお、私共が落合マンドリンをご紹介することができるのは、この工房の皆の日々の努力があってこそです。
落合大悟郎
落合三四郎
終わりに
落合は釣りが好きでした。船を出し、竿を用いずに針と糸のみの手釣りで鯛を上げるその姿は趣味の釣りというよりも漁の様でした。
そして釣りをしている最中もずっと楽器の話をしていたものです。とにかく何をしていても考えているのは楽器のことばかりでした。
そんな落合が癌で命を落とす前にしていた話を思い出します。
それは私と落合が二人で釣りをしていた船の上でのことでした。
「いつか自分たちの船で海へ出て、そして釣りをしたい。」
残念ながらその夢を実現する前に彼はこの世を後にしました。
ですがもう一つの夢である「素晴らしい楽器をつくり落合マンドリンの名を皆に知ってもらう」という夢は当代落合大悟郎が成し遂げてくれました。
それでもなお「更なる向上を!」という先代の想いを胸に、これからも落合マンドリンは進化を続けていく事と確信しております。
2013年9月14日 「落合マンドリン50周年記念コンサート」パンフレットより
落合マンドリン カタログPDF↓
http://www.ikegaku.co.jp/ochiai_catalog2019.pdf
落合マンドリン推薦文・推薦者プロフィール↓
http://www.ikegaku.co.jp/ochiai_suisen.htm